2011年7月19日火曜日

出産記念日

「生まれる前までのことだけを考えていた」

出産記念日を一人で祝いました。
特にどうということはないのですが、
そう内的に思っていただけです。

外から見ると
人を待っているのかな〜と思うくらいの
何気なさで。

私は子供が生まれる前までのことは必死に考えていました。
正確には産むところまでしか想定せずにいました。
結局、妊婦=私が幸せな状態が子供にもいいはずと確信して
自分が最も楽であろうという方法で出産したのです。

出産後落ち着いたところで
その時のことをちょっとまとめたのですが
コンピューターが壊れてデータが消えたので
かすかな記憶+ねつ造も入ってしまうかもという
断りを入れながら
少しここで
書いてみることにしました。

「妊娠中はバラ色」

はじめて体重が増え、自分の人としてのバランスがとてもよくなりました。
やはりこのくらいの身体だと、ゆったりして暮らせる。
神経過敏にならず、オールマイティーな言い訳を得た自分。
(人が親切にしてくれる)
このままずっと妊娠状態だったら
なんて幸せなんだろうと思っていました。

「たどりついた選択は自宅水中出産」

ところが、一方、自分中心の幸せが阻害されると
とてつもなくイライラしはじめました。
「待たされる」とか、「思った通りに物事が運ばない」と気分が悪くなりはじめました。
まず、出産時寝て待っているというのが無理だということがわかってきました。
自分が自由に動けない抑圧感。
乾いた場所で液体が出ることの違和感。(これがなぜ嫌か良く分かりませんが)
生まれそうになってから、どこかに行かなくてはいけないというストレス。
(その的確な判断できなそう・・・)
赤ん坊は羊水の中で生きてきたのに急に乾いたところに出るのは
どうなんだ?ワンクッションあった方がショック軽減するのでは?
などなど・・・・渦巻く中

私に適していると思われたのは自宅で簡易プールを組み立て、出産というプランです。
これには当然協力者が必要で
うちの場合は、子供のお父さんと助産婦さんの3人チーム(子供を入れたら4人ですね)編成でのぞみました。
ちなみに、出産には危険がつきものなので、万が一のためのバックアップの先生の診察も
一度受けていました。

「事前予想では楽なはずがやっぱり苦しかった。
私って野性の勘ないの?」

予定日の1週間前が満月でその日が怪しいと思っていた私でしたが
そこは何事もなくすんなり通り過ぎ
本来の予定日から
毎晩苦しさがやってきまして、朝になるとひいていきました。
このままでは本番の体力が心配・・・と、なるべく思わないようにつとめていました。

予定日を3日すぎ
陣痛がいっこうにひく気配がなくなった
夜中の2時過ぎ
「いよいよじゃないの?!」ということで
ポケベル(時代が!)にて助産婦さんを呼び出しました。
助産婦さんからは
プール組み立て指令が発令され
お父さんは組み立て開始し、お湯をはりはじめました。
ちなみに私は海水濃度の塩を入れる希望を出していたので
それも投入されました。

私はその間
痛み苦しんでいました。そして、「いつプールに入るのがいいの?」と淡い、
しかし重要な疑問が浮かびあがっていました。

水中出産までは計画していましたが
具体的には皆無。本番?では勘が働くんじゃないの?と思っていたようですが
けっこう分からないことだらけで
もちろん呼吸法などもなんらやっていなかったのです。(へへ)

「mission impossibleの文字浮かぶ」

早朝の段階で、助産婦さんが私の産道状態を調べ、「まだ生まれそうにないわ。昼くらいじゃないの?」ってことで一旦、彼女は寝始めました。
それを聞いて苦しい私は気が遠くなりましたが、
もう外界にいる気がしなくなったので助産婦さんからの「自分が入りたい時に入れば?」
というアドバイスにより
結果としてはすごく早目にプールに入りました。
途中で出たくなるくらい何事も起きないのに水につかってふやけてしまいました。

起きた助産婦さんにスイカでもどうぞと勧めたところ
「人に気を遣っているようじゃ、まだ生まれないわね」と軽く言われました。
その後のことが想像できていなかったので(本当にそうなっていくのですが)
その時は「そうなんだ〜どんなに恐ろしいの?」と想像つかぬ恐怖が。

プールは
八角形(たぶん8)のワクに使い捨ての青いシートを張ったものです。
このワクは出産後、次の家庭へと受け継がれていくものです。

端にもたれ掛かっていましたら
だんだんと激しい痛みに変化していき
結局のところ私は四つん這いの姿勢で痛みにたえ出産にのぞみました。
それこそ勝手にそのかたちに。それしか選択はなかったのです。
助産婦さんはもっと助けやすい態勢を望んでいたようですが
あまりの苦しさで、そのかたちしか私には不可能でした。
ここで一気に野(獣?)性全開ですね。
いよいよ終わりの見えない闘いが - mission impossible -
始まる・・・(水中だからすごく楽だろうと想像していた私)

「何ラウンドだったのか忘れたが、敵のいないボクシングの試合であった」

ふつう陣痛と陣痛の間隔がせばまっていき出産に至るという経過をたどるようですが、私の場合最後まで、その間隔がわりとあり、極端な痛みと平和の繰り返しがずっと続き、そのためにおさまった時にはプールのへりに座り「ふーっ」と一呼吸する。その時に介添えの二人がアロマ入りのタオルで背中を流してくれるというセコンド状態。また苦しみがやってくると一人戦闘態勢にもどるというのを繰り返していたのです。笑えますね〜。だって、平和な時には、二人と笑いながら話しているのです。今、考えるとすごいドーパミンだかエンドルフィン放出状態ですね。

羊膜が丈夫だったらしく、なかなか破れず、かつ臍帯が首に二重に巻かれていたこともあったためか、超慎重に出てきたので、破水に時間がかかりました。(今も性格が超慎重)
でも、頭が出始めてからは私もやる気がではじめ(やっとゴールが見えたので)
我に還ったというのか、今までやみくもに試合に取り組んでいたことが分かり始めました。
痛みと正面から向き合いすぎでした。なんだ私の今までのいきみ方のタイミングと目標のズレは!と反省したのを覚えています。出産しながら学んでいったのです。遅っ。

「泳いでやってきた子供」

不可能と思えたミッションが昼前に終了し私はどれだけ安堵したことか。思わず笑みがこぼれてきました。泳いで私の前にやってきた赤ちゃんは、生な猿のよう?とややびびっていましたが、自分の子はやはり猿には見えませんね。とてもかわいいので感動しました。ギャルのように爪が長くて笑いました。
お父さんが臍の緒を切り、助産婦さんが私の横に寝かせました。一緒に並んで寝ていましたが、私は興奮状態なので寝ると言っても眠れるわけはないのです・・・ずっとニヤニヤ笑いながら話していた記憶があります。
人生初の超リアルを体験しました。

「そして、もっと大変に・・・」

闘い終えた充実のボクサーはそこまでのことしか
考えていなかったので
そこから育てることが(勝手に育つとはいうものの)もっと
大変だということにその時は気づきませんでした。

つづくかも・・・

2011年7月8日金曜日

生きている still






佐久間さまとkodaの
肖像画のような写真
(7/6 五百夜ライブ後)
by naitoh naoki






「日本海 礼文島」 杉本博司 氏

2011金沢21世紀美術館にて


絶対の水平線。揺れる人の心に確かな不動さを呼びさます。動かない写真が内包する圧倒的な生命力。受け留め消化することができない質量。

自分がこの眼で見るであろうリアルの海よりも、ここに提示された海は、はるかに私に存在を訴えかける。なぜだろう。絶えず動く波の一瞬に留まることは難しい。「いま」は絶えず変化する。止まっているがゆえにふつうはとどまれない時間に集中できてしまうからだろうか?

止まっているのに生きている
うごめいている
数えきれないものたちが
目に見えないものたちが

測り知れない世界が絶対的力を持って存在していた。

目を離すことができずにいた私をそこから引き離したのは、「ね〜、早く行こうよ〜」と私の腕をつかんで引っ張ったせっかちな子供だった。

別の次元に戻された?


*写真は私の近影であり本文とは直接関係しないものです。